日々是研究 ~アトリエ・虹 人体と美術研究部ブログ~

人体の構造を学ぶことで画力アップをはかりたい人のためのブログ。共に学ぼう!!!

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08月の記事一覧
2010/08/28 Sat  15:22:37

 » 立体視 

こんにちわ。会員の小林です。

彫塑制作も残すところあと1回となってしまいました。時間が経つのは本当に早いものです。。

僕は立体を作るという行為は中学校の図画工作の授業以来なので、今回は単純に楽しもうと思って毎回粘土塗れになりながら制作しています。

最初の1回は粘土を捏ねて重ねていくのが楽しくて。

中盤は粘土の乾燥の速さやどのくらい定着するかなど素材の特徴がわかってきて。

終盤はモデルさんとの比較がやっと意識でき始めたのではないかというところです。

ここまでやってみて一番感じているのはやはり普段絵を描くときにどれだけ見えているものに囚われてしまっているかという事です。絵が平面に立体を起こす事だとしたら、僕は平面に平面しか描いてなかったように思えます。

僕の彫塑は一辺の角度から見れば人体に見えなくはないですが、全体を回してみたらおよそ人間ではありません。
耳の位置が左右で違ったり。頬骨の高さが全然違ったりしています。ましてやモデルさんの表情を捉えるなんて遥か遠い先です。

その事を絵に置き換えるとまた色々と気付かされます。この人が反対向いたら一体どんなになってるんだ!?と。

もちろん3Dと2Dは違う部分が多くあります。作品を良くするために嘘をつく表現だってあります。しかしそれにはやはりきちんと人体を捉えられる事ができてなければいけないと思います。

僕が思う良い作品とは、その世界に行ってみたくなるような、描かれている物の存在を強く感じる作品です。

見えている方向は一方向でも、その裏側さえも想像できてしまうような。

そんな作品が僕は好きです。


今回の彫塑では立体の難しさと面白さ、この2つを体感できたのが大きな収穫でした。

あと1回、最後まで自分の作品を疑ってみようと思います。


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今後の予定!

■ 第9回ワークショップ 『人体構造美術解析画法(女性ヌードモデル使用)』全8回
女性ヌードモデル、人体骨格模型を使用した『骨格』を中心にした解析画法講座。(11.12月で男性モデル『筋肉』を予定)

毎週火曜日19時~22時
9/7、9/14 体幹の骨
9/21、9/28 上肢の骨
10/5、10/12 下肢の骨
10/19 クロッキー(同じモデルさんで、別会場にて行います)
10/26 頭部の骨

・持参用具
クロッキー帳、(B3)
鉛筆、消しゴム等の必要な画材


詳しくはHPをご覧下さい^^



お問合せはこちらから!
問合せ







2010/08/16 Mon  00:29:14

 » [美]はどこにある? 

棚橋です。暑さのせいかどうか分かりませんが、この[部ブログ]、このところ元気がありません。もう1ヵ月半以上寝たきりです。いくら待っても誰も起き出す気配が無いので、仕方なく私が老体に鞭打って起き上がることにしました。


私は、世界中に知られた高名な画家の作品を見せられても全く[美]を感じないことが少なくありません。逆に、公募展などで見た無名の絵描きさんの作品に強く惹かれることもあります。早い話が『見る目がない』ということなのかも知れません。

でも、[名画]に対する反応は人によってまちまちではないでしょうか。同じ作品を見ても、美しさに感動する人もいれば、何の興味も持たない人もいます。どうしてこういう違いがあるのでしょうか。サッカ-ボ-ルは誰にも丸く見え、仁鶴の顔は誰にも四角く見えます。饅頭を食べれば誰もがお茶が怖く(欲しく)なり、梅干を見れば口に唾が溜まるでしょう。どうも[美]の感覚は、視覚や味覚など他の感覚(五感)とは、仕組みが違うような気がします。


人によって様々なこの[美]の感覚は一体どのようにして形成されるのでしょうか。これを考えるのにとても参考になる材料があります。アトリエ・虹を指導していただいている高見先生のエッセイです。故郷での幼少期の釣りの思い出などをまじえて綴られた素晴しいエッセイで、読んでいて心が洗われる思いがします。鬱蒼と茂る樹木、その間をしぶきを上げて縫うように流れる清冽な渓流。魚影を追って岩から岩へ足場を移しているうちに、いつの間にか夕闇が迫っている。こんな情景が瞼に浮かんできます。

このエッセイを書いておられる時の高見先生の心は、安らかで幸福感に充ちていたはずです。(先生、勝手な想像をしてゴメンナサイ。) 少なくとも私は、読んでいて確信に近い強さでそう思いました。そしてこの情景とその時の心の充足感、これこそが先生の[美]の原点に違いないと、これまた勝手な推理で納得しました。

実は先生は一連のエッセイの他の箇所で、野山や海の風景画を描こうとは思わないと言っておられます。[美]の感覚の原点を成す風景を何故描かないのかと、不思議に思われる方もおられるかも知れません。私はこう思うのです。ご自分の[美]の原点だからこそ、絵などにしないで、そのままにしておきたいのだと。絵にすることで原点が【変質】してしまうことを、細心の注意をもって避けておられるのだと。

話が横道にそれかけてきました。元に戻って、[美]の感覚の形成には、単に視覚だけではなく聴覚や触覚などあらゆる感覚が関係していると、私は思います。更に、快・不快、つまり幸福感や充足感といった広く精神的な要素が加わって、これらが総合的に作用して[美]の感覚が形成されるのだと、私は考えます。


このようにして形成され、人の内側に伏在していた[美]の感覚が、ある美術作品を見ることによって呼び覚まされた時、人はその美術作品を『美しい』『スバラシイ』と言うのではないでしょうか。そうすると[美]は美術作品そのものではなく、実は見る人の内部にあったことになりそうです。何かをモチ-フにして描かれた美術作品も、その意味ではまた見る者にとってのモチ-フだとも言えるかもしれません。[美]が見る人の内部にあるのなら、同じ作品に対する反応が人によってまちまちなのも頷けます。


ここでひとつ困ったことがあります。[美]が個人の内部にあって十人十色なら、[美]には普遍性はないのでしょうか?普遍性が無いものは芸術ではないとすれば、美術は芸術ではないのでしょうか?

どうやら私は私の手に負えない世界に迷い込んでしまったようです。退散・退散!